August 30, 2006

自衛隊車両続々集結 !!


荒川の河川敷に自衛隊の大型車両がたくさん集まっている。
テントが張られ、仮設のアンテナがあちこちに設置されている。
パトカーも出動し、なにやら物々しい雰囲気だ。
東京湾に出現したゴジラが、高圧鉄塔のバリケードを突破し、ジワジワと千住に迫っているのかもしれない。
はたまた、北朝鮮のノドンを迎撃するための最前線としてこの河川敷が使われるのだろうか。
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いや、「戦国自衛隊・2」の撮影かもしれない。
まてよ、いよいよ大雨で千住地区が4メートルの水底に没する危険がでたので、その緊急対策本部の設置ということも考えられる。
都知事からも区長からも、事前に何の連絡もこのオヤジにはない。
まことに遺憾なことだ。

あー、わかった。
9月1日は防災の日っていうやつだ。
大掛かりに訓練しちゃおうってことね。
なーんだ。
オヤジなんか昔仕事で、はしご車にのせられて、ビルのてっぺんまで連れて行かれたもんね。
銀座のソニービルで1時間中釣りになったこともあるもんね。
防災訓練は得意だもんね。
きっと火事場のバカ力もでるもんね。

でもその日に備えて、慌てず騒がず、しっかりと気持ちを保ち続けられるように訓練してもいいかもね。
災害と悪魔は忘れた時にやって来る・・・。



18:04:13 | mogmas | | TrackBacks

August 28, 2006

林檎の悪夢、再び ?

   
iTunesに曲を読み込ませているところだった。
クレイジーケンバンドの「実演 ! 夜のヴィブラート」の途中だった。
曲を聴きながらブログの更新をしていたのだ。
何の前触れもなく、情けない腹の虫が鳴くような「クゥ〜ン・・・」という吐息を漏らし、林檎娘が沈黙し、電源がシャットダウンした。
目の前のディスプレーは漆黒の闇が支配し、パワーボタンを押せど、電源コードを引き抜き再度試みるも、林檎は息を吹き返さず、絶望の数分が過ぎた。

だがシジュウクサイオヤジをなめるなよ !
お前の何代も前の林檎娘の気まぐれにずっと付き合ってきたのだぞ。
死んだわけではあるまい、ただ気を失っているのだ。
それほどクレイジーケンバンドにグッときたというのか、必ず息を吹き返してみせる。
まだ飼いならして1年余りのウブな娘と言えども、白い横っ面をピシッと張り飛ばし、願いを込めてパワーボタンを押す。
ジィヤァ〜ン、、、、、、、、、、起動成功。
危険なクレイジーケンバンドのCDは排出し、ディスクユーティリティを使い原因究明に乗り出すも、何ら異常は見当たらない。
この気まぐれ娘め。
最近少々甘やかしすぎたのか、転ばぬ先の杖、データを全部バックアップしてやる。
オヤジが冷や汗をかいているのをよそに、林檎娘は何事もなかったように動作している。

なんじゃい、これは。
OSが虎蔵になってから、確かに信頼性は高まったかもしれないが、ときどきアレッということにブチあたりおる。
油断も隙もありゃしない。
もう明け方まで林檎娘に懇願するザマはご免や。
いざとなったら記憶を全部消去して、身売りしてやる。
シジュウクサイオヤジはそれなりに非情なんやでぇ。
アキバの中古屋の片隅で春をひさぐ目にあいたくなければ、素直にオヤジの命令に従従わんかい。
ええな、林檎気まぐれ娘め !!

10:13:00 | mogmas | | TrackBacks

August 25, 2006

島の行商人VSみちのくの行商人

   
日焼けして肌が黒くなるほどに、地元のおじい、おばあの対応が軟化して、島んちゅと同等のレベルになったという「ヒトリモン」先生。
そりゃそうだ、20日間も島に滞在していりゃ馴染もうってもんだ。
松崎しげるも一歩引くほど真っ黒の島の行商人が、島土産をたくさん持ってやってきた。
泡盛、島らっきょう、海ぶどう、パイン、潜って採って中身は食ってしまった大きなあこや貝の貝殻などなど、相変わらず気前のいいシジュウクサイだ。

お盆休みで仙台に帰郷していた「バーバーくん」も、大きな荷物を抱えて大汗かいて帰ってきた。
帝王おすすめの無農薬トマト、キュウリ、ナス、伊達の牛タンなどなど、こちらも気前のいいお土産がたくさん、島土産との物々交換みたいに分け合った。

ブルーのきれいなボトルに入った多良間島の泡盛を開け、しこたま飲む。
「ヒトリモン」先生、マイルがたまっているので年内にまた島に行くという。
いやいや、どうぞ行ってらっしゃい、とても「ヒトリモン」じゃなきゃできませんて。

あ、うーさんのとっくりさん、お元気でしたね。
これまた失礼しました。

12:55:08 | mogmas | | TrackBacks

更新不能 !


フ、フ、フ、今夜は更新できまい。
やるとしたらそれは惰性である。
でも、すばらしい文章を披露されたら、ごめんなさいと言うしかないのだ。
酒の量的には屁のようなもんだが、お疲れ度はかなりなもんだと推察するので、若い(フン、オヤジに比べればだぜ)力がどこまでやるのか、見てやろうじゃないの。
返してみなさい、とっくりさん、いやさ、うーさん。

09:46:00 | mogmas | | TrackBacks

August 22, 2006

画家・望月晴郎のこと

  
竹橋にある「東京国立近代美術館」へ足を踏み入れるのは、およそ20年ぶりのことだ。
入館料1300円のところ、65歳以上は無料なのでばあさんはフリーパス。
小僧の障害者手帳のおかげで、付き添い2名まで無料ということで、かあちゃんとオヤジもタダで入館できてしまった。
家族4人しめて5200円浮いたぁ、ありがたや。

ホッとするほど静かで涼しい館内は、芸術をご観賞の人々で賑わっている。
1階で開催中の「モダン・パラダイス展」では、ゴーギャン、モネ、マチス、カンディンスキーという巨匠たちの作品が展示されているが、我々一行は一瞥するだけで通り過ぎ、美術館の所蔵品ギャラリーの会場を目指した。
エレベーターがシンドラー製でないことを確認して4階に上がると、館内の案内表示板をたよりに奥へ進む。
岸田劉生、藤田嗣治などのそうそうたる大家の作品が並ぶ中、昭和戦前期の美術・都市の中の芸術家コーナーの一角に、その絵はあった。
1931年制作、50号のキャンパスに描かれたそのタイトルは「同志山忠の思い出」。
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望月晴郎の作品である。


望月晴郎(1898〜1941)


本名・望月晴一郎、明治31年北海道函館で二男二女の長男として生まれる。
父・望月徳次郎は平民であったが、“やっとう”の心得があるため西南戦争に官軍として従軍、戦後その剣術の腕前を生かし、各地の刑務所の刑務官に剣術を指導して歩くことを生業とする。
その道程の地、函館で晴一郎は生を受けた。
やがて一家はこの地を離れ東京に戻り、現在の千住中居町のあたりに居を構える。
折しも時は大正デモクラシーの波が日本中をうねり、多感な思春期にあった晴一郎を思想的に突き動かし、やがて社会主義、共産思想へと駆り立ててゆく。
そんな中で絵画の研究所へ通い始めた晴一郎のことを、父徳次郎は快く思わなかったようだが、息子が一本立ちする前に早世した。
晴一郎が20歳を過ぎた頃、富山で米騒動が起こり、全国に波及し、シベリア出兵、朝鮮の独立運動、国際連盟に正式加入、ベルサイユ条約調印、アインシュタイン博士の来日、野口英世が黄熱病の病原体を発見などなど、時代は急速な近代化と、その歪みを抱えながら、軍部の台頭に暗雲が立ち込めるなか、関東大震災の洗礼を浴び、昭和へと突入する。
もともと小柄で痩せていた晴一郎は、20歳の徴兵検査で丙種不合格であったのか、時代がまだ切羽詰まっていなかったため、軍隊にも行くことなく、関東大震災の頃結婚した。
大正14年に長女が誕生し、昭和3年に二女を授かる。
時代は若い画家を潤すほど穏やかではなく、家族は貧乏のどん底で肩を寄せ合い、芸術などは二の次に、羽子板、紙芝居など絵を描けるものにはなんでも描いて生活の糧にした。
満州事変の年、昭和6年の作品「同志山忠の思い出」を仕上げるも、それを納める額を作る金にも窮し、せっかく売れた作品の代金は借金の返済で瞬く間に消えてしまう有様だった。
だがその頃から、時局は共産思想の持ち主には特別厳しい風あたりで、特高警察にしょっぴかれることもしばしば、やっと釈放されたかとおもえば、飲み屋で安酒を呷り,生活は荒れていった。
昭和13年、三女が誕生。幼子のために酒を控え、手当り次第に仕事をこなしていくが、まもなく戦争が始まり、それと同じくして、晴一郎の身体も変調を来たしてゆく。
昭和15年、結核を発症、寝たきりの生活を余儀なくされる。
昭和16年8月11日、自宅の八軒長屋で家族に見送られながら、晴一郎死去。
享年43歳。


20数年前に一般公開された時には、シャガールの隣りで、堂々の展示だった。
その時に晴一郎の長女が詠んだ歌を数首、
   
   「シャガールの絵と隣り合い飾られし 父の絵今は地下に安らふ」
   
   「戦災にも焼けず残りし一枚は 父の友らが身もて守りし」

   「金持ちのロシア人に一枚の 絵売れたりと父に聞きしが」

   「意にそはぬ世となりゆけば居酒屋の 酒を呑みては絵を描きイしと」

   「悶々の父今にしてわかる齢 馴染みの店に昼も酔ひイし」


この絵のどこがいいのかはわからないが、当時の世相を表したものとして、戦災を免れた貴重な絵画として価値があるのだろう。
画家・望月晴郎の二女はばあさんで、不肖の孫はこのオヤジである。
前記の年譜は記憶も薄れてきたばあさんからの聞取りでまとめたものだ。
この絵の所有権は当然もう遺族にある筈もなく、今回の公開で美術館の倉庫に永久保存され、もう日の目を見ることはないらしい。

それではと、係の女性にワケを話すと「望月画伯のお嬢様でいらっしゃいますか」と言った方も言われた方も、ともにガラじゃねぇやと思いつつも、取りあえず写真撮影の許可をもらった。
撮影OKのシールを胸に貼り、静かな美術館に無粋なデジカメの電子音を響かせ、数枚の写真を撮った。

いずれもっと詳細な一代記をまとめたいという、なんとなく使命のようなものを感じつつ、満足して美術館を出た。
パーキンソンの震えが治まらない「画伯の令嬢」は、それでもしっかりした足取りで歩き、まだ将来のある「小僧画伯」は、家に帰ると早速チラシの裏に何やら描き、その気になっている。
今日も蝉時雨が休むことなく降り注いでいる。

15:22:51 | mogmas | | TrackBacks