March 14, 2006

龍馬追っかけオヤジ

慶応二年、一月二十三日(1866、3月9日)。
八つ半頃(午前3時近く)。
伏見奉行・林肥後守の配下が、船宿「寺田屋」をひしひしと取り囲んだ。
かねてよりのお尋ね者、土州浪人「坂本龍馬」を捕縛、或いは殺害するために、捕方は月明かりに槍の穂先を青白く光らせ、口から白い息を漏らし、緊張に押し黙って与力の命を待っていた。

かつて徳川家康が最も恐れた、薩摩・長州の2大藩の連合を、一介の浪人者がまとめあげてしまったのだ。
これにより、幕府打倒の道は大きく前進する。
その男、浪人・坂本龍馬は、長府藩士で宝蔵院流槍術の使い手、三吉慎蔵とともに、大仕事を成し遂げた祝杯を挙げているところだった。
「三吉くん、さすがにわしゃぁ、うれしゅうて眠れんぜよ」
「坂本さん、そうはいっても明日のある身、そろそろ休んだほうがよろしいでしょう」
そこへ、慌ただしく階段を駆け上がり、飛び込んで来た裸の者あり。
「ほたえなっ!」
「あっ、すんまっせん。つい興奮してしまったわけで・・・」
男は赤いふんどし一枚で照れたように頭をかいた。
「なんじゃ、土竜のおんちゃんじゃないかい。ここはおまんが来るところではなかろう。お龍はどうしたんじゃ」
「いや、その、お龍さんはまだ風呂から上がってないわけで、捕方がたくさんのいっぱいいるわけで、かわりにオヤジかご注進とおもったわけで・・・」
「ええい、やめんかい、その中途半端な倉本聰は。ここは、お龍が危機を知らせにくるいいシーンなんじゃから、おまんはちくっと引っ込んどれ」

と、龍馬さんに怒られたわけで、このあとの死闘はおなじみの映画やドラマ、小説などで堪能していただきたく・・・。
ともあれ、130名もの捕方に襲撃され、高杉晋作から譲り受けたピストルがあるとはいえ、あまりに多勢に無勢。
六連発のすべてをぶっ放し、両の手を斬りつけられた龍馬と三吉は、敵がひるんだ隙に逃げに逃げる。

お龍の機転もあって、なんとか薩摩藩邸へ逃れた龍馬は、そこで西郷吉之助(隆盛)から、傷の養生をしに薩摩に来ないかと誘われる。
ちょうど帰国の途につく西郷さんらと共に、薩摩藩船「三邦丸」に搭乗、三月十日鹿児島に到着した。

これが日本で最初の新婚旅行といわれる、龍馬とお龍の温泉旅行の始まりである。

画像の表示こんな芋焼酎も手に入れたが、あっさりと常連さんと空けてしまった。

天保山から与次郎ケ浜画像の表示へ通じる太陽橋のたもとにある龍馬とお龍さんの新婚の旅碑は、ちょっと手直しをしていた。

画像の表示画像の表示
シリコン工事の業者さんに手を休めてもらい、せっかくなので写真を撮った。

銅像の方は案外小さかった。画像の表示
日比谷にある「ゴジラ」の銅像ぐらいの大きさだ。

「なんじゃぁ、わしゃ、ゴジラと同じかい」
「まあ、化け物と一緒にされたらかないませんわ」
「そうじゃのう。土竜のおんちゃん、ぬしゃぁ、ここまで追いかけて来て何をほざいちょるんじゃ」
「いえいえ、おさむらい様、私は水戸のちりめん問屋の隠居でございます。こちらが共のうっかり小僧・・・」
「ええい、やめんかい、この酔っぱらい。ピストールが火をふくぜよ」
「あれぇ〜、おたすけ〜」

龍馬さんのおっかけオヤジは、土佐の桂浜、鍛冶橋の土佐藩邸跡、京都の近江屋跡、霊山神社、そして天保山へとやってきた。
まだこの鹿児島には、龍馬とお龍の旅碑と銅像が建つ温泉があるが、事前に調べたところによると、温泉地としては少々廃れているようで、アクセスもよくないため、今回の旅では残念ながらその近くの温泉で満足することにした。

鹿児島空港から車で約20分ぐらいだが、山深く、ひなびた感じが旅情をそそる「妙見温泉」。
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天降川沿いに温泉宿が立ち並び、気軽に湯巡りが出来る。
宿にはそれぞれに自家源泉があり、ほとんどが自噴泉のかけ流しだ。
泉質は炭酸水素塩泉が多く、飲用できる。

河原の苔むす岩に囲まれた「野天風呂」で、きっと龍馬とお龍さんも同じような風景の中で、同じような泉質の湯に浸かっただろうと思いを馳せ、オヤジと小僧は川を眺めて仁王立ちのブーラブラ。
ピストルで鳥を撃ち、山に登り、新婚の二人は生涯でもっとも幸せに包まれた日々をこの地で過ごしたのだろう。
温泉天国鹿児島「ゆくさおさいじゃったもした」

次回かあちゃんの実家へ帰る時には、長崎経由で「亀山社中」のところなどを見ていこう。
「龍馬さん、待っちょってよ〜」
「土竜のおんちゃん、おまん、ほんにしつこいぜよ・・・」 

10:48:00 | mogmas | | TrackBacks