July 10, 2006

粋な渡世のバーバーくん

   
「新門辰五郎」をご存知であろうか ?
幕末、江戸町火消十番組の頭領、七百人余りの町火消しと、人足、土手組と呼ばれる火消しとは認められないが、一丁事あれば馳せ参じる野郎どもを加えると二千人もの男たちを束ね、一声で動かせる組織の長であり、最後の将軍「徳川慶喜」から絶大な信頼を受け、「江戸」の最後を見届け、動乱の時代を駆け抜けた大親分である。
その子孫がまだ浅草には健在し、「新門の親分」として三社祭などでも重要な役割を果たしているのだと、「バーバーくん」が言うのである。
仙台出身の彼が、粋な土地柄の浅草で仕事をしたことで、こんな歴史の断片をオヤジにもたらしてくれて、「笹沢佐保」の「日本遊侠伝」なども愛読しているこの身の血が騒ぐのである。

「新門辰五郎」の「新門」とは、激動の時代に切れ者として注目されつつも疎まれた「一橋慶喜」が、安政6年に浅草寺別当の「伝法院」へ蟄居を命じられた際、輪王寺門跡宮の通行門として新門が設けられた。「慶喜」とじっこんの仲だった辰五郎は彼の推挙により、その新門の番人という名誉職を与えられた。
「慶喜」23歳、辰五郎60歳の時である。
その晩年の名誉ある称号が今日まで伝えられているのである。
凡そ三千人の子分を束ねる辰五郎は、将軍から直々に奉公せょと薦められても、江戸っ子の野に生きた分際をわきまえて断ったのだ。
しかし、明治元年の鳥羽・伏見の戦いに徳川勢が敗れた時も「慶喜」と共にあり、薩摩・長州の錦の御旗が江戸を火の海にしようと身構えた時も、 勝海舟の要請により江戸の治安維持に協力し、最後の戦い上野の山に彰義隊が立てこもった時は、死を覚悟で大砲が鳴り響く中を、寛永寺、江戸の町を戦火から守るために自らの天職を全うしようと子分と共に駆けつけ、「戦は手伝わねぇが、火消しの邪魔をするヤツがいたら、官軍だろうがなんだろうが、ぶち殺せ!!」と号令し、炎の中に身を晒して奮闘した。

「徳川慶喜」が駿河へ落延びた際も随行し、街道の大親分「清水次郎長」と会談したが、斬った張ったで伸し上がった渡世人とは格も貫禄も違うという事を目の当たりにし、次郎長さんも一目をおく存在だったようだ。
ヤクザ、渡世人ではないが、「親分」として、後世に名を残す人物なのである。
その「新門の親分」の何代目かの子孫は、三社祭や粋な伝統行事の際には、なくてはならない人であるようで、時々ニュースなどでも登場していた。

だが、昭和の酔っぱらい「バーバーくん」の視点は、大親分でさえも笑いのネタにしてしまう。
ある日、彼の働く床屋さんの隣りの飲み屋に、「新門の親分」が自転車でやって来たのだそうだ。
彼はもちろん親分を知っているので、挨拶を交わすのだが、あるものを見て笑いの導火線に火が付き、携帯で写真を撮ってしまったのだ。
それをオヤジが喜ぶだろうととっておいてくれて、今夜見せてもらった。
画像の表示「頭専用」
自転車の後ろの泥よけに、「バーバーくん」曰く、へったクソな文字で「頭専用」と白ペンキで書いてある。
うわぁ、親分、そりゃ、切ないでござんすよ。
まあ、黒塗りのベンツに「頭専用」なんて書いてないだけ、庶民的ではありますがね。
いいなぁ、浅草って。
また、昼間っからホッピー飲みに行っちゃおうかな。


10:27:00 | mogmas | | TrackBacks