July 30, 2006

40年ぶりの海

  
店の連休最終日の27日、朝6時半起床。前の晩3時過ぎまで起きていたので,頭はボケボケだ。
半分寝たままで海パンを穿き,荷物を持って、小僧と2人「ヒトリモン」先生の自宅へ向かった。
平日はつねに早起きの「ヒトリモン」、すでに元気いっぱいで愛車「ランクル」を出して待ち構えていた。
車に乗り込み、やや渋滞の道を千葉方面へ向かう。
高速に入り、穴川のあたりでもたつくが、概ね順調に君津まで飛ばした。
高速を下り、国道127号線をひた走り、「東京湾観音」の入り口を通り過ぎ,目的地「上総湊」へは10時半頃到着した。

雨こそ降っていないものの、どんよりと空は重く、晴れ男の効果もむなしく,海に入るにはまったく不向きの陽気だ。
海岸の駐車場には商用車がポツポツ停まっているくらいで、海水浴目当ての車など見当たらない。
駐車場から海まで歩いても,人影もなく、記憶を呼び覚ます風景にも出くわさない。
♪今は もう秋 だれもいない海・・・♪

そんな歌を口ずさみたくなるような寂しい浜辺には,無数の貝殻とゴミが延々と繋がっている。
海岸線の向こうには、ウルトラマンほどの高さの「東京湾観音」がそびえ立っているいる筈だが、重く立ちこめたモヤでその姿も見えない。
40年前の記憶にも霞がかかっているようで、あの時ほんとうにこの浜を走り,タカラ貝を拾ったのか,やや呆然として砂浜を歩く「ヒトリモン」とオヤジであった。

目の中に入れても痛くない,文字通りネコっ可愛がりの孫の手に、最後のお小遣いを握らせ,静かに祖母が息を引き取ったのは、40年前の8月。
もうこの世に自分の味方は誰もいないんだと、悲しみにくれるドラ息子を見かね,このままではロクな大人にならないと、母は心を鬼にして,区の養護施設に入れることを決意した。
その年の9月、小学校3年生の二学期。クラスから3人の悪ガキが千葉の上総湊にある足立区の養護学園に送られた。
我がまま、偏食、拒食、虚弱、肥満、粗暴、等々の欠点を持ち、親からも教師からも睨まれている子供たちを、田舎の自然環境の中で集団生活を送らせ、協調性を持たせ、甘えを克服させようという目的の養護施設だった。
学年からわずか3人という狭き門をくぐり抜けた悪ガキのうちの、2人がこのオヤジと「ヒトリモン」である。
当時から「ヒトリモン」は健康優良児体型で、「ジャイアン」タイプのお坊ちゃま。
堅苦しい学校を離れて、丁度いいバカンス程度のつもりで、食べるものも美味いし、エンジョイしていたふしがある。
オヤジはといえば、チビでガリガリの寝小便タレ、親に見捨てられたと思い、食事も喉を通らず,上級生からは往復ピンタの毎日、絶対脱走してやると秘かに企んでいた。
そんな二人の視点が、それぞれの記憶を趣きの違うものに変えてはいたが,今となっては懐かしい共通話題の方が多い。

浜辺をしばらく歩くと、海の家が2軒並んでいるあたりに、数組の家族連れが砂の上にシートを広げていた。
波打ち際では子供が砂遊びをしているだけで、誰も泳いでる者はいない。
ライフガードもヒマそうに監視所で持て余している。
目を細めて海を見つめていた70がらみの地元のおばさんに、養護学園と昔の浜辺の
様子を聞いた。
それによると、近頃はすっかり海も汚れ海水浴客も減って,海岸線も沖に後退し,40年前とは地形も変わってしまったということだった。
養護学園はもうずっと前に「健康学園」と名前を変えたが,それも今は閉鎖され、ただ建物だけが残っているのだった。

せっかくここまで来て、海に入らずに帰るのも寂しいし、ライフガードにも緊張感を与えてやらなければなるまいと、男3人は周囲の目も気にせずジャバジャバと海に入るのであった。
タマも縮みそうな水の冷たさにはすぐに慣れ,ひとしきり飛沫を上げ、潜り、ベトつくような海を堪能した。
幸い駐車場の脇にあるシャワーは、荒れて放ったらかしに見えたが水は出たので、身体を洗って着替え,いざ、養護学園じゃなく「健康学園」に向かった。

上総湊の駅のそばでも、40年前には人家も道もない山の上だったような印象があったが、新しい家やビルが建ち、すっかり昔の面影はなくなっていた。
画像の表示運良く1、2週間ごとに建物に風を通して、掃除をするというおばさんたちがいたので、中を見せてもらうことが出来た。
40年前は木造の校舎で、「学校の怪談」の舞台にぴったりな廊下がきしむ作りで、夜は宿舎のトイレに「花子さん」が待ち構えているような雰囲気で、オヤジは毎日のように寝小便で地図を描き、校庭の鉄棒に布団を干しにいかされた。
だが、トイレの外を蒸気機関車が走り,間近で汽笛を鳴らされると、途中まで出かかったモノも引っ込んでしまうので、夜毎失敗を繰り返すのだった。
ある夜、いじめられっ子仲間3人と、蒸気機関車が走り去った線路に下り立ち、東京方面を目指して脱走した。
線路の上をライトもなくトボトボトと歩き続けると,海の岩場の上に鉄橋が掛かっているところに出くわし、すぐ真下を砕け散る波が夜目にも白い飛沫を上げ,なんとも恐ろしく,そこを超えて先に行くことがどうしても出来ずに立ちすくんでしまった。
結局スゴスゴと学園に戻り、悔しさでまんじりともせず朝を向かえたのだった。
しかし、そういう事実があったことは「ヒトリモン」は知らず,学園の生活を満喫し、4、5キロも体重を増やしたそうだ。

せっかくある施設を空けておくのはもったいないが,少子化の影響や、昔のような悪ガキがいなくなったのかもしれず、どこの区でもこういった施設は閉鎖されているらしい。
子供たちにとって、親元を離れて集団生活をするということは多少なりともいい影響を与えるかもしれないと、今この歳になってわかるが、当時は本当に辛かった。
ただ、40年という歳月は色々なことをを甘美に変える。
雑草が伸び放題の校庭に立った「ヒトリモン」とオヤジの胸中には、井上陽水の「少年時代」が静かに流れていた。
あちこちを歩き思い出を検証し、40年前のあの日に、これでようやくピリオドが打てたと納得し,車に乗り込み上総湊をあとにした。


14:50:28 | mogmas | | TrackBacks