March 21, 2007

血と砂

  
軍服にゲートルを巻いた若者たちが、歩兵銃のかわりにトランペットやサックス、太鼓を手にデキシーランド・ジャズ「聖者が街にやって来る」を演奏する冒頭から、岡本喜八ワールドが全開だ。
そこは昭和二十年の北支戦線。
やがて颯爽と馬を駆り、刀を腰につけた「椿三十郎」、いや「もうすぐ四十郎・・・」、いやいや世界の「三船敏郎」扮する「小杉曹長」が登場する。
う〜ん、男は黙って◎◎ビール。画面が締まるぜ。

小杉曹長と軍楽隊の少年十三人、それに小杉にほれている慰安婦お春(団令子お姉様素敵 !! )の一行は、佐久間大尉(仲代達矢)率いる独歩大隊に到着。
小杉はすぐさま佐久間と対峙、クールな佐久間との間に緊張が走る。
「貴公はまた上官に暴行するつもりかーーー云々」
な、な、な、これはまさしく「椿三十郎」のあのシーンを彷彿とさせるではないか。
う〜ん、男は黙って◎◎ビール。プハ〜ッ、画面が締まるぜ。
だが、小杉の鉄拳が佐久間の顔面に炸裂、上官暴行で逮捕、営倉にぶちこまれてしまう。

小杉がなぜ佐久間をぶん殴らなければならないのか、なぜ戦闘訓練もまともにしたことがないような軍楽隊の少年たちをかばうのか、なぜ慰安婦にやさしくするのか。
その答えは、同じ岡本喜八監督の痛快作「独立愚連隊」(1959)を見るとより明確になる。
1、弟の死に疑問を持つ型破りな曹長が主人公である。
2、戦場では役立たずにしか見えない連中と共に、最前線に送り込まれる。
3、彼に思いを寄せる従軍慰安婦がいる。
4、卑劣な職業軍人が登場する。
等々、共通点がとても多い。
「独立愚連隊」で佐藤充が演じた役柄を、そのまま「血と砂」では三船が演じているように思えるが、音楽を愛する純真無垢な少年兵が配されていたり、内地でも戦地でもひたすら墓穴を掘り続ける臆病な“葬儀屋”持田一等兵(伊藤雄之助・はまり役)が、銃殺された小杉の弟を葬る際「靖国神社だけは行くなよ。他の神様たちにいじめられるから。いっとういいのはね、なくなっちまうことだよ。魂も何もかもなくなっちまうことだよ」と土饅頭に語りかけるシーンは、「独立愚連隊」ではあっさりと「迷わないでまっすぐ靖国神社行くんだぜ」となっていたり、戦争の空しさ、愚かしさを訴えるメッセージ性がより強くストレートに伝わる演出になっていることが大きな違いだ。

「独立愚連隊」との共通点もさることながら、同じ東宝映画だといえども、三船、仲代、伊藤と「椿三十郎」の主要な登場人物が顔を揃え、絶妙でコミカルな演技を繰り広げるのは一見に値する。
また、青侍の加山雄三や田中邦衛のかわりに、強烈な個性の佐藤允が「若さだよヤマちゃん」(◎◎ビール、プハァ〜ッ)とばかりに暴れ回るさまは、痛快だ。

河野洋平もアベ総理も、韓国も中国も、「血と砂」「独立愚連隊」「兵隊ヤクザ」を見るがいいのだ。
映画を鑑賞してから、会議でも交渉でもするるがいい。
それでもだめなら「男は黙って◎◎ビール。プゥハゥァ〜ッッッ !! 」だ。

11:29:00 | mogmas | | TrackBacks

March 19, 2007

ロッキー・ザ・ファイナル

  
久々の試写会は、新橋のヤクルト・ホール。

ROCKY

THE
FINAL
「ロッキー・ザ・ファイナル」


いまさら還暦寸前の、引退した老ボクサーの話なんて・・・、とタカをくくっていた。
タダで見られる試写会ならいいか・・・、とたいした期待もなく席に着いた。

ビル・コンティの名曲が鳴り響いた途端に、不覚にも両目から熱いものがこみ上げてきてしまった。
歳をとって一番困るのは、涙腺がユルユルになることだ。
だが、幸いにもここは映画の試写会場。
誰憚ることなく、滂沱、滂沱の、スクリーンに雨が降る。

低予算映画「ロッキー」は、1976年北米で公開された。
その年は、「スター誕生」「キングコング」「大陸横断超特急」「大統領の陰謀」「オーメン」「がんばれ!ベアーズ」「ダーティハリー3」などの、そうそうたる作品が公開されたが、それらを押しのけ、無名の俳優と3流監督の作った映画が、第49回アカデミー作品賞 ・監督賞 をかっさらい、翌年日本公開され大ヒットし、第51回キネマ旬報ベストテン洋画第1位にも選ばれた。
だが、当時の屈折した映画青年たちの愛読雑誌「映画芸術」では、「ロッキー」はワースト1と酷評だった。
ごく普通に感動したワタシは「なにがいけないんだよ! 」と仲間に噛みつき、「映画のことを何もわかっちゃいない」とせせら笑われ、「おまえらの好きな映画の方がセンズリ映画じゃねぇか ! 」と突っかかり、ボコボコにされた経験がある。

「ロッキー・ザ・ファイナル」では、愛するエイドリアンは今は亡く、ロッキーはすっかり当時とは変わってしまったフィラデルフィアの街を彷徨い、在りし日の妻との思い出のペットショップや、廃墟と化したスケート場などを訪ね、過去と別れを告げられないでいる。
ただ1つ変わらないのは、相変わらず飲んだくれの義兄ポーリーだけだ。
今はレストランを経営するロッキーだが、成長した息子とはすれ違い、胸の奥底にくすぶった思いが日に日に強くなるのを押さえられない。

思いがけないチャンスで街のゴロツキからチャンプになったロッキーの物語は、シリーズのマンネリ化、ロッキーがスーパーヒーローとしてキャラクター的存在になってしまい、スタローン自身に対するバッシングも強くなったりと、作品の正否がそのままスタローンの生き様として反映されてしまうのだが、じつは、第1作から5作までスタローンの言わんとすることは一貫している。
「ロッキー」という生き方は、必ずしも相手を完全に打ちのめして勝利することではなく、どんなに過酷な境遇でもあきらめず、どんなに打たれても最終ラウンドまで持ちこたえて立っていることで、自らの愛と誇りを証明し、真の勝者になることなのだ。
そういうことを思いながら「ロッキー・ザ・ファイナル」を見れば、フィラデルフィア美術館の大階段を駆け上がる不滅の名シーンの再現や、精肉工場で肉を叩くシーンなど、第1作へのオマージュ的な愛情のこもったひとつひとつの描写に胸を締めつけられずにはいられない。

「ロッキー4」で、ソ連の怪物ボクサー「イワン・ドラゴ」の破壊的なパンチを喰らい、脳に障害をおこし引退したロッキーは、「ロッキー5」のようなストリート・ファイトで締めくくることをよしとしなかったのだ。
16年たって、きっといい薬もでき、脳障害も克服したのだと考えよう。
還暦寸前のボクサーをリングにあげるコミッショナーって(きっと悪徳プロモーターから金を握らされている)、どうよ。
“イタリアの種馬”なのに、一人っ子とは寂しいじゃないの。
トレーニングで叩いた牛肉は安く日本に卸して、牛丼になったのかい !
等々、さまざまなツッコミ、指摘、揚げ足があるのは当然。

でも、いいじゃない。
そういうことは、いっさいヌキ。
演出がどうのとか、脚本がどうだとか、美術や撮影がどうのとか、そんなこともどうでもいい。
30年前にはじめた仕事に、キッチリおとしまえつけて、絶対にあきらめないことを自らの肉体で表現できる役者なんて、そうそういないと思うのだ。
先入観とテキトウな批評に左右されてはならない。
「ロッキーのテーマ」や「Eye Of The Tiger」に心が躍るなら、理屈ヌキに見るべし。
偉大なるマンネリ、素晴らしいエポックメーキング、崇高なる予定調和、バンザイ。
権利ばかり主張し、経験もないくせに理由のない自信で強がり、金と多数決にはなびく若造どもは、一発ガツンとロッキーの重いパンチを喰らうべし。

自らの手で幕引きをしたスタローン=ロッキーに拍手。

でも、「ランボー」はあまり見たくないな。
老兵は静かに消え去ってほしいと思うのだ・・・。



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