August 05, 2007

人には内緒にしておきたかった、ドジな話

  
花火の時に、階段を踏み外して捻挫したことは、イベントを盛り上げようとするサービス精神の表れだが、捻挫する前の右足に、沸騰したお湯をこぼして飛び上がって叫んだのは、サービス精神とはちがう。
三ツ星レストランのシェフがスープの味見をするのに似ているが、生憎オヤジの右足には味覚が備わっていなかっただけだ。
さらに残念なことに、火傷もせず、面の皮同様、足の皮膚も丈夫だといことが証明された。

このように物事は、良く、正しく、前向きに考えた方がいい。

先日、ある洋式トイレに入った。
その様子は悠揚迫らず、まるで白鳥が湖を滑るように見えたことだろう(水面下で必死に足をバタバタしていることは、普通人は考えない)。
トイレの鍵をかけるのももどかしいほどに、ズボンのファスナー(最近はチャックとは言わないらしい。きっと世界中のチャックさんからクレームがついたのだろう)を下ろし、放水開始しようとする寸前、シャツの胸ポケットに入れてあった眼鏡が、命の次に大切な老眼鏡が、便器の中に落ちた。
すぐに拾おうと手を出しかけたが、一瞬早く、主人の意志に逆らって放水が開始されてしまった。
しかも、狙いすました黄金水は、勢いよく老眼鏡を押して、便器の最深部である水たまりの中に、大事な我が第二の目玉を沈没させてしまったのだ。
だがなおも放水活動は中止されず、ジョボジョボと老眼鏡に命中するのを唖然と見守るほかなかった。
やはり“ヤツ”は、ご主人様とは別の意志で行動をしていたということが、この常軌を逸した出来事から、またオヤジは学んだ。

放水活動が無事終了後、若干の躊躇いはあったが、このまま目玉を放置することも出来ず、黄金色に輝く水の中に手を突っ込み、指先でつまんで老眼鏡を拾い上げた。
救出された目玉は、ただちに流水で洗い、匂いをかいでさらに洗い、再び胸ポケットにおさめ、何食わぬ顔でトイレを出た。
眼鏡をかける度に、トイレに入る度に、そのことを教訓として噛み締め、その後は別の意志を持つ“ヤツ”と折り合っている。

しかしこの間の深夜、いい気持ちちゃんで帰宅し、着ているものをすべて洗濯機に放り込んで、珍しく何もせずにおとなしく寝て起きた朝一番に、かあちゃんから怒られた。
テーブルの上にバンと置かれたのは、ツルが片方はずれてしまった老眼鏡だ。
どうやら、シャツの胸ポケットに眼鏡を入れっぱなしにしていたらしい。
すっかりきれいに洗濯され、黄金水の名残もなくなった眼鏡だが、ツルが片方付いてなければちゃんとかけられない。
上品で高貴な顔立ちではあるが、「マトッリクス」のモーフィアスみたいに、ツルのない眼鏡がかけられるほど鼻は高くない。
平身低頭して、どうぞ眼鏡屋さんで直してもらってくださいと懇願したら、両手を腰に勝ち誇ったような顔つきで、洗濯機で洗っていいものと洗ってはならないものをクドクドと講釈された。
半世紀も生きてようやく、眼鏡は洗濯機で洗うものではないと、身を以て理解した。

人は失敗を恐れては生きていけない。
失敗は明日の糧になり、同じ過ちは繰り返さないことで成長する。
つまりオヤジは、ものすごーく成長してるってことだ。
このまま成長し続けると、神様になってしまうので、それはつまらないから、たまにわざと失敗したように見せることにしよう。




13:51:59 | mogmas | | TrackBacks