November 26, 2006

capote


もしマリリン・モンローが「ティファニー」の前で夜明けにパンをかじっていたら、もしマリリン・モンローがギターを弾きながら「ムーン・リバー」を歌っていたら、
ひょっとすると「ティファニーで朝食を」のポスターを店の2階に貼っていなかったかもしれない。
マリリン・モンローは大好きだ。
とてもセクシーで、魅力的で、capoteのお気に入りだったのだろう。
しかし、capoteの原作と違っていたとしても、オードリー・ヘプバーンの「ティファニーで朝食を」が、わたしは好きだ。

だが「ティファニーで朝食を」の話を書こうというのではない。
capote、トルーマン・カポーティの「冷血」にまつわる話を書くのだ。
今年23本目の映画は、時間と場所の関係上、日比谷シャンテで上映されている「capote」になった。
見たいと思っていたのだ。
アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞など、数々の賞を総なめした映画だからではない。
「ティファニーで朝食を」の原作者で、「冷血」でノンフィクション・ノベルという分野を開拓した、ゴシップとスキャンダルに彩られたアメリカを代表する作家トルーマン・カポーティに興味があったからだ。

一言でいうと、すばらしい。
主演の「フィリップ・シーモア・ホフマン」の演技なくして、この映画は成り立たないぐらい、圧倒的な個性でトルーマン・カポーティを描ききったといっても過言ではないだろう。
かといって、1984年に亡くなったトルーマン・カポーティをよく知っているわけではないが、なまじニュースフィルムやドキュメントのようなもので見かけるよりも、「フィリップ・シーモア・ホフマン」のカポーティは2時間弱の間目の前に存在して、同時代の人が理解し得なかった事実をも語りかけてきた。
脳天から出てくるようなかん高い声、知的ではあるが、仕草のひとつひとつがカマっぽく、つねに飲んだくれている人気作家が、「M:i:III」の憎々しくふてぶてしい悪を演じた「フィリップ・シーモア・ホフマン」とは、イーサン・ハントの変装も顔負けである。
もっとも、時間的には「capote」の方が「M:i:III」より先なのだが・・・。

1950年代末、すでに押しも押されぬ人気作家で、アメリカの社交界にも君臨していたトルーマン・カポーティは、ある小さな新聞記事を目に留め、カンザス州の田舎町へ赴き、そこで起きた農家の一家4人の惨殺事件を取材する。
彼の中ではこの事件が、ノンフィクションの新たな地平を切り開くにたる創作意欲をかき立てるものだということが直感できたのかもしれない。
関係者への綿密な取材、やがて拘束された容疑者の若者2人とも接触し、その1人ペリー・スミスに強く心を通わせていく。
現在ではいちジャンルとして確立されているノンフィクション・ノベルを生み出すまでの、5年という歳月の間に、カポーティの中では野望、欺瞞、同情、信頼、苦悩、等々が渦巻き、そして最後には「冷血」誕生と引き換えに容疑者の死刑を望むようになっていた自分に愕然とする。

幼い頃に離婚した両親、親戚をたらい回しにされた過去、背が低く、かん高い声をだし、ゲイであるということで疎外感を抱いていたカポーティは、同じように社会の底辺で疎外感を味わっていたペリーと自分をたとえて、「彼と僕とは一緒に育ったが、ある日彼は家の裏口から出て行き、僕は表玄関から出た」と言う。
だが、ひとつの事実を冷徹に記録する作家の非情さから、友情を感じ始めていた殺人犯に嘘をつき、利用し、産みの苦しみから逃れるために彼の死を願う。
「冷血」の完成になくてはならない制裁、絞首刑を待ち望み、震えながら酒を呷りながらも、涙の一粒と引き換えにペリーの死を見届ける。
そして出版された「冷血」は一大旋風を巻き起こし、カポーティは作家として不動の地位を築くことになる。
しかしそのあと、酒とドラッグ、鬱病にあえぎながら、59歳で心臓発作でこの世を去るまで彼は小説を書けなかった。

現代ではこの「冷血」事件より残忍で、不条理きわまりない殺人事件が頻繁に起きているが、犯人の深層心理を追い求め、事件の一部始終を明らかにして世に問うノンフィクション・ノベルの作者は、取材対象者と心を通わせ、あるいは共感することによって精神が疲弊するリスクをつねに負っているのだろう。
狂気と冷静のせめぎ合いの中ですばらしい作品が生み出されるのだ。

地位や名声、華やかさの代償として、失ったものはなんであったのか。
「冷血」から14年後に発表された「カメレオンのための音楽」はまだ未読だが、ぜひ読んでみたい。
カメレオンマン=ウディ・アレンの映画「アニー・ホール」にノンクレジットで出演していたらしいが、まったくわからなかった。
これも見直さなくてはなるまい。
そして、ティファニーで朝食をとっているマリリンの姿をイメージしながらヘンリー・マンシーニを聴いてみるのもいいだろう。

15:42:39 | mogmas | | TrackBacks

November 22, 2006

イーオン・フラックス

  
政府は2011年にすべてを「地デジ」にしようと企んでいるが、実はその年に謎のウィルスによって地球上の99パーセントの人間は死んでしまい、だれもくだらないテレビなんぞを見ているヒマはなくなってしまうのだ。

天才科学者「グッドチャイルド」によって発見された治療薬で救われた500万人の人間達は、唯一残されたユートピア「ブレーニャ」に隔離されて暮らしている。
そして400年の歳月が流れた2415年、ユートピアを代々統治する「グッドチャイルド」家の治世に疑問を感じた人々は、反政府組織「モニカン」を結成、凄腕の暗殺者「イーオン・フラックス」を独裁者「トレバー・グッドチャイルド」の元へ送り込んだ・・・。

またまたおなじみの「ウィルス」、「近未来」、「独裁者」、「隔離社会」、そして「スーパー・ヒロイン」ものであります。
この設定でセクシーな暗殺者というと、どうしても先に見た「ウルトラ・ヴァイオレット」のジョヴォ子と比較してしまうのは仕方ないことだ。
主演の「シャーリーズ・セロン」初のアクション物ということで、ずいぶんトレーニングをしたらしく、なかなか見せるところもあるのだけれど、流れるような動きをカメラはカットで割ってしまい、一連のアクションがもたらす爽快感が今ひとつ伝わってこない。
また、ジョヴォ子の肉体のパワフルさが、スリムなモデル歩きのセロンちゃんには欠ける。
特殊な能力においても、人間の領域を超えているジョヴォ子と比べると見劣りする。
監督の好みの問題なのだろうが、おおっ、と乗り出すような武器や兵器をもっと見せて欲しかった。

しかし、敵の総帥にすぐにたどり着けちゃうところは両者とも同じなんですな。
似た設定ではあるが、ドラマの厚みという点ではこの「イーオン・フラックス」の方がやや勝っているかもしれない。
「ウルトラ・ヴァイオレット」が映画のオリジナルであるのに対して、「イーオン・フラックス」は原作アニメが90年代に人気だったようで、影響を受けたとすればむしろ「ウルトラ・ヴァイオレット」の方だし、セロンちゃんをバーワーアップしたのがジョヴォ子なら、これも納得できる。

あとは女優の好みの問題だな。
「モンスター」でアカデミー賞を受賞しているセロンちゃんがやるということに意義があるわけで、それはそれで見事で、日本の女優にはマネのできないことだと思う。
香港や韓国のペッピンさんが、素晴らしいアクションをこなしているんだから、アジアの顔でアクションが成り立たないなんてことはないのに、日本娘はなかなか出てこないのが残念ですな。
再び志保美悦子が活躍できるように、本日は長渕剛の「とんぼ」でも聴いてみましょうかね。

13:46:09 | mogmas | | TrackBacks

November 21, 2006

父親たちの星条旗

  
1945年、アメリカ軍の大艦隊が取り囲んだのは、「焼けこげたポーク・チョップ」のような東西わずか8キロのちっぽけな島。 
圧倒的な艦砲射撃を受けた島は、もう丸裸にされ岩と砂しか無いように見える。
だが、艦隊司令官はあと10日間爆撃させろと本部とやりあい却下される。
かくて5日間で島を占領するはずが、このあと1ヶ月以上も凄惨な戦闘は続く。

上陸したアメリカ軍兵士は、地下壕の中から狙い撃ちしてくる見えない日本兵のためにバタバタと倒されていく。
波打ち際に漂う仲間の死体を踏み越えて揚陸艇が着き、次々と兵士たちが吐き出される。
一人でも多くの負傷した仲間を救おうと戦場を駆け回る海軍衛生下士官、ジョン・“ドク”・ブラッドリーは、あちこちから聞こえる「衛生兵 !」という叫びに、銃弾の雨をかいくぐり飛び出していく。
だが1人、2人なんとか助けても、とても追いつかないほど負傷兵は横たわり、死体は増え続ける。
それほどまでに、このちっぽけな島を奪取する意味は何か ?

太平洋戦争末期、すでに米軍はマリアナ諸島を押さえ、超重爆撃機ボーイングB29の一大基地を築き、日本本土への空襲を開始していた。
だが、マリアナ諸島からの長い航続距離や、必死の抵抗をする日本軍のために迎撃され、帰還できないこともあり、基地と日本を直線で結んだ中間にあるこの「硫黄島」を手にすれば、その後の戦局に大きく影響するのは必至であった。
一方日本側にしてみれば、「硫黄島」はまぎれもなく日本の領土、帝都東京の一部なのだ。
この島を占領されれば、本土への攻撃はより激しく、上陸を許すことにもなる。
軍部は開戦前からそれを想定し、中部太平洋方面の最前線にあるこの島を爆撃機の発着基地として要塞化した。
それゆえ、他の太平洋の島々での戦い(大艦隊に取り囲まれ、制空権も制海権も奪われ、物資の補給もなく、撤退することもできずに追い込まれ、“生きて虜囚の辱め”を受けないために全員が「玉砕」した)とは違い、最後の一兵、最後の一発まで徹底的に戦い抜き、より大きな損害をアメリカ軍に与えるとともに、本土上陸をできるだけ引き延ばすことを要求された。
「硫黄島」での激烈な攻防が長引いたのはそういった理由からだ。

一衛生下士官のジョン・“ドク”・ブラッドリーは、そんな国と国、軍と軍の思惑などを気にかけてはいられなかった。
ただ彼は仲間を助けることだけが自分の努めと信じ、島を一望できる「摺鉢山」に登頂して国旗を立てるときも手を貸したにすぎなかった。
しかしそこで撮られた1枚の写真が、戦争の行方も彼のその後の人生も大きく変えてしまう。

自らも2年間カーメル市長として政治家経験もあるダーティ「クリント・イーストウッド」ハリーは、戦争の隠された真実を奢れるアメリカに突きつけた。
戦争の後ろにいる、軍服に金モールを着けて命令する連中、ポケットに手を突っ込んで葉巻をくゆらす政治家どもが、多くの若者の命を奪ったという事実を、この映画は声高に主張するのではなく、「硫黄島」から生還し、思いもかけずヒーローに祭り上げられた3人の若者の苦悩と挫折と沈黙を通して、静かに、とてもていねいに描いていく。

しかし「プライベート・ライアン」あたりからさかんに使われ始めた手法によって、実にリアルで凄惨な戦闘シーンが展開し、見事なCGはまるで実写のように「硫黄島」へタイム・スリップさせてくれる。
もうじき公開される日本側の視線で見た「硫黄島からの手紙」で、ここに使われた映像がまたどういうふうに見えるのかとても興味深い。

人間の尊厳や誇りを、静かな怒りと悲しみを持って描き出される「クリント・イーストウッド」作品、これからも目がはなせない監督で役者の1人だ。

15:14:44 | mogmas | | TrackBacks

November 02, 2006

トンマッコルへようこそ

  
「悪魔のあっくん」に「硫黄島へ行かずに朝鮮半島でなにしてるんじゃ !?」と突っ込まれること必至なので、取りあえず先に言い訳しておこう。

新聞屋さんが映画の招待券をくれたのだ。
しかし錦糸町の楽天地限定で、10月31日までという券だったのだ。
取りたててみたいと思う映画がかかっていなかったので、間際になってしまったのだ。
「トンマッコル」のお話はなんとなく聞いたことがあったし、朝鮮戦争についてはよくわかっていないこともあり、かあちゃんは韓国映画初体験だというので、チケットを無駄にしたくないから行ってみたのだ。

錦糸町にもシネコンができたので、楽天地はがらがらだと思ったら、けっこう人が並んで待っているではないか。
韓国映画、侮り難し。

水墨画のような、滲んだ筆文字のような、落ちついた趣きのあるオープニングから一転、朝鮮半島を二分した地獄の戦場へ観客は放り出される。
同じ民族が別れて戦う理由すら知らない若い人民軍の兵士と、部下を大勢死なせてしまった中隊長、罪のない民衆を巻き込む戦闘を続けられなくなった韓国軍少尉など、生きのびるために山中を彷徨う兵士たちがやがてたどり着いたのは、戦争などどこ吹く風と、まるで世俗とは隔絶したのどかな、時が止まったかのような小さな村「トンマッコル」だった。
そこには墜落した戦闘機から助け出されたアメリカ人兵士もいて、兵隊たちは一触即発の睨み合いを続けるが、戦争よりもジャガイモや蜂蜜の収穫や畑を荒らすイノシシの方が気になる村人は、彼らを相手にせず普段の営みを続ける。
やがて来る冬のための蓄えをしておかなければならないからだ。
しかし、不発だと思っていた手榴弾が蔵を吹っ飛ばし、中にあったトウモロコシがはじけて空高く舞い上がり、白いポップコーンが雪のように、花吹雪のように降り注ぐ。
この幻想的な出来事を境に、兵士たちの気持ちが少しずつ変化してゆく・・・。

センスのいい、ほのぼのとした、しかし容赦ない戦争の現実をまざまざと見せる、じつに見事な反戦ファンタジー映画だ。
「グエムル」でもそうだったが、アメリカ=連合軍のエゴが事態を深刻に複雑にしているというメッセージは、韓国映画ならではの描きどころだ。
相変わらず役者の層は深くて熱いし、銃器の取り扱いやCGも増々冴え渡る。

「トンマッコル」のような村は、かつては日本にもたくさんあったろう。
いや、世界中にあったはずだ。
人種や思想や宗教が違っても、夢の理想郷のイメージはみんな似ている。
つまりそれがいい、そうあってほしいという思いは万国共通の平和のイメージなのだ。
それなのに、人は理想郷にとどまれずに争いを起こしてしまう。

最初は憎みあった北と南とアメリカの兵士たちは、理想郷に殉じる「連合軍」になる。
南北統一という暗喩が彼らの戦いに込められているのだろう。

「トンマッコル」の空には、季節に関係なくたくさんの蝶が羽ばたいている。
それはこの山で散っていった多くの命の象徴なのかもしれない。

タダで見てしまったが、お金を払う価値のある映画だったと思う。

10:46:00 | mogmas | | TrackBacks