December 11, 2005

三丁目の物体X

カート・ラッセルが好きだ。
主演の映画はぼ見ている。
しかも、アメリカの善良なお父さん的な役より、法も情けも無用でござる、といったアウトローな役の方が断然好きなのだ。

例えば、1981年の「ニューヨーク1997」(ちなみにモグランポのの開業は1997年)の“スネーク”や、翌年82年の「遊星からの物体X」のヘリコプターのパイロット“マクレデイ”のようなヒゲモジャの愛想の無い男がはまり役だと思う。
「遊星からの物体X」は1951年のハワード・ホークス版のリメイクだが、オヤジ的にはジョン・カーペンター監督&カート・ラッセルコンビのほうが好きだ。
最近のカート・ラッセルは“いい人”の役が多くて、ちょっと物足りなかったが、「ソルジャー」という映画で、再びビルドアップされた肉体でハードなアクションを見せてくれた。
お話はオバカでも、外国の役者はほんとに“魅せる”んだなぁ。

過去に見た映画の中で、「遊星からの物体X」はかなり好きな映画だ。
だから、何度も見てしまうのである。
あの、ドロドロ、ネチョネチョ、グチャグチャ具合がたまらなくいい。
ロブ・ボーディンの特殊メイクがもう最高。気の弱い方はご覧にならないで下さい、というくらいじゃなきゃ満足できません。

まあ、こんな嗜好だから、多くの人とは好きな映画が違う。
この間見た「三丁目の夕日」は、いい映画だが好きな映画ではない。
ウルウルしたからといって、本年度ベストワンです、というわけではない。
「ハリー・ポッター」や「宮崎アニメ」にはまるで興味が無いし、最近はやたらお涙頂戴な映画が多くて、食傷気味なのだ。

現時点で「遊星からの物体X」と「三丁目の夕日」が上映していたら、間違いなく「遊星からの物体X」のほうを見る。
いい映画と好きな映画は違うのだから。

12:45:11 | mogmas | | TrackBacks

December 07, 2005

映画とは「記憶」するもの也


旧足立区役所跡地に建設中のビルに、「黒澤明」のなんたらいう施設ができるらしい。
かといって、区全体としてはちっとも映画に前向きでなく、より芸術的に見えて、お金持ちっぽく見える「演劇」にお偉いさんはご執心なようだ。
相変わらず千住には映画館は出来ないのだ。

生前「黒澤明」は「才能とは記憶」だと言っていたという。
本を読む、映画を見る、経験を生かし、応用する。
日々の記憶を鍛えつくるのは自らの努力ということだ。
まさに「黒澤」の記憶は、演出=編集ということに現れている。
編集の材料を集める作業=撮影、で得られた膨大な量のフィルムをつないでいくことは、それこそ記憶を紡いでいくことに他ならない。
完成した写真がしっかりと脳裏に描かれているからこそ、観客がスクリーンに釘付けになるような作品が生まれるのだ。
そして時代を経ても色あせず、記憶と言う銀幕に投影される。
「黒澤」の記憶が個々の人の記憶に溶け込んだのだ。
オヤジの持論、
「映画とは記憶するもの。ビデオ(DVDも同じ)とは記録するもの」
は、そんなところからきている。

映画館の映写機とスクリーンとの間に介在する空気、熱気、緊張感、ざわめき、笑い、涙、等々の劇場を構成するすべての要素が絡み合って、作品とともに記憶される。
ゆえに、家庭で見るお手軽なビデオとは記憶のレベルが違う。
赤の他人と2時間もの間、基本的には黙って一点を見つめる“異様な”経験は、このせわしない世の中、映画館くらいしかないのだ。
そうとは知らずに観客は学んでいるのである。
あらゆる束縛、差別、偏見、趣味趣向、人種、性別の壁を取っ払って映画館の椅子に座るのである。
騒ぐ子供、たしなめられない親、マナーを守らない、気づかない人、そんな人達をも教育する“場”なのだ。
だから、映画館は必要で、無くしてはいけないのだ。
文化・芸術の面からはもちろん、建築基準法や風営法の観点からも見直さなければいけない。
金儲けの視点からは、もはや日本映画は立ち直れない。
散々楽しんだのに、見放すような我々一人一人の意識も変えなければいけない。

「なーにを偉そうに」
誰かさんの声が聞こえる。
「ご託を並べるヒマがあったら、とっとと映画館へ行け」
確かに。
「あんたは今年何本映画を見たんだ」
もう、そんな時期ですね。
「今年のベストワンは、なんだ」
まだ、もうちょっと残ってますから、有終の美を飾らせて下さい。
「シネコンにも入ったことが無いくせに」
おっしゃる通りでございます。
「どうせ年末年始はビデオ漬けなんだろ」
お許し下さい「悪魔のあっくん」。

来年は戌年ですから、「黒澤」の「野良犬」でも見ましょうか。
オヤジの選ぶ「黒澤」映画の中ではベスト3に入っている作品であります。
う〜、わんわん。
おっと、まだ早いか?


10:02:00 | mogmas | | TrackBacks

December 04, 2005

「底なしの貧乏」完全版


以前見た夢の続きや、その細部を補完するような夢を見た経験はめったにない。
それを見てしまった。

最初に見た夢があまりに馬鹿馬鹿しくも、妙にリアルで話にも落ちのある夢だったので、目覚めてすぐ書き留めておいた。
しかし、細かいところが曖昧で、所詮夢の話だと思っていたが、なぜか行ったことや見たことがあるようで気になっていた。
それでも書き留めておかなかったら、そんな夢のことなどもうすっかり忘れていただろう。

悪夢は忘れそうな頃にやって来る。
すっきりするために、ここでもう1度書き留めておこう。

『底なしの貧乏』完全版


*注()の中は新たに確認できたことである。



とある商店街の一画。(仙台の国分町の近く)
アーケードの中ほどにある雑居ビル。(経営不審で数館ある映画館の一つを閉め、リニューアルを考えているビル。かつてスチャラカベロンチョのお勤め人時代、実際に現地調査を行ったことがある)
入り口付近は若者で賑わっている。
雑踏を避けて裏手に回ったオヤジとかあちゃんと小僧は、まるで楽屋口のような雑然とした非常階段を上へと昇る。
ビルの最上階には、今は懐かしの「名画座」があるとわかっている。
こんな場所でも好きな人には知られているのだろう。若い娘が(膝下まである黒いブーツを履いていた)私たちを追い抜き、上がっていく。
急な階段はどんどん続く。
小僧がごねる。
「腹へった」
そうだ、腹もへっているのだった。
が、構わずどんどん昇り、最上階へ。
狭い踊り場には段ボール箱がそこかしこに置かれ、ひび割れた壁面には破れた映画のボスター(ハンフリー・ボガード)とチケット販売機が埋め込まれている。
かあちゃんが500円硬貨を3枚販売機に放り込み、チケットを購入する。
劇場の入り口の真ん中に置かれた椅子に腰掛けたおばちゃんに、チケットを手渡すと、おばちゃん待ってましたとばかりに、ニヤッと笑い(お歯黒だった)丼を三つくれる。
それをてんでに持ってチケット販売機の前まで戻ると、かあちゃんは提げていた紙袋の中からラーメンの麺を取り出し、それぞれの丼の中に入れる。
販売機にはなぜか給湯口が付いていて、一人一人丼を手に熱いお湯を注ぐ。
ホカホカと湯気の立つ丼を捧げ持って、私たち3人は映画館の中へ入っていく。
もうすでに映画は始まっており、英語のセリフが聞こえてくる。
上映中の映画はモノクロのアメリカ映画。
タイトルは「底なしの貧乏」。

今年の2月の初めに見た夢だ。
映画のガイドブックを見て、こんなタイトルの映画があるのか探してしまった。
さすがになかったが、我が家の貧乏ここに極まりたり、という感じだ。
しかし、映画館でラーメンとか麺類はないよなぁ。
おばかだなぁ。
正夢になるのはいやだなぁ・・・。



09:50:00 | mogmas | | TrackBacks