August 09, 2006

太陽

   
銀座「シネパトス」、初回の劇場の入りは130%というところか。
観客の7割りが50歳以上と見受けられる。
2回目のチケットも整理券が配られ、早くも満員御礼だ。
「昭和天皇」を描いた「太陽」は、日本での劇場公開が危ぶまれていたが、ようやく一般公開と相成った。
しかも、天皇の「靖国発言メモ」が公表され、プレスリー好きの総理大臣が参拝するかどうかと内外から注目を集める、8月15日を前にしてのタイミングのよさだ。

静かに、とても静かに映画が始まる。
イッセー尾形を知っている観客は、最初彼の一流のモノマネとしてその人物を見る。
しかしいくらも経たないうちに、それがモノマネではなく、1945年の8月に、この国の誰よりも苦悩していた人物そのものであることに気がつく。
穏やかで控えめなその人物が、内に深い悲しみと憂いを抱えていることを知る。
防空壕の中で、たえず低く聞こえる機械音や電波のノイズ、焦燥感を煽るような音楽が、主人公とこの国が置かれた状況を物語る。
主人公はけっして激情に駆られて叫んだり、衝動的な言葉を発したりはしない。
ある程度の年齢の人なら記憶にある映像の中で、昭和天皇が口をモゴモゴとさせ、浮かんだ言葉を反芻・咀嚼し、ゆっくりと話し始めるクセを思い出すだろう。
イッセー尾形の演技はパロディではなく、まさに神が宿ったかの如くその様を再現した。
インタビューで彼はこう言っている。
「劇中で陛下は自分を神とあがめることを否定します。一人の人間が『自分は人間である』と宣言する。なんて悲しい、なんてナンセンスなんだ、と思いました。これを世界中で唯一、背負わされた人間が昭和天皇。あの大変な時期に、権力の頂点に立たれた。これは想像を絶することです」

この映画は、プライベートな「昭和天皇」を真っ正面から捉えた世界初のフィクションだ。
ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の演出は、重厚で静謐で幻想的に、日本のターニングポイントとなるこの時代を「天皇ヒロヒト」のごく周辺だけで描いてゆく。
ナマズと平家ガニに造詣の深い天皇の夢の中では、B-29は奇怪な魚となり空を飛び東京を焼け野原にする。
明治天皇が目撃したという「極光」の意味について悩み、闇に包まれた国民の前に太陽はやって来るだろうからと、居所にジープで乗り付け、無礼な振る舞いをするアメリカ人に、おどけたポーズで写真を撮らせもする。
調子に乗った彼らは、天皇が「チャーリー・チャップリン」に似ていると囃し立て、「バイバイ、チャーリー」と去ってゆく。
そして、ダグラス・マッカーサーとの会見。
自身がある意味独裁者であるにも係わらず、頭ごなしに「ヒトラー」の同類として天皇を見るマッカーサーは、そのやんごとない人柄に触れ態度を軟化させるものの、ハバナ産の葉巻どうしをくっつけて火をつけ、煙を天皇の顔に吹きかけるという無礼を平気でやってのける。
様々なユーモラスなシーンが観客から笑いを引き出し「人間天皇」を際立たせるが、すべて、今でもこの国ではタブーな表現ばかりだ。
現在でも天皇を「現人神」と思っている人はいるのだろうか ?
映画の冒頭から、佐野史郎演じる侍従長が「お上」と呼ぶのをきいて、若者は「お神」と捉えるのだろうか ?

前略おふくろ様、桃井かおりが皇后を演じるとは思いもよらなかったわけで、天皇の人間宣言を録音した技師が自決したことを聞いた皇后が表情を一変し、戦争という殺戮を繰り広げた男たちに憤怒と哀惜の瞳を向けるシーンは圧巻でした。
焼け野原の東京にエンドタイトルが流れ、スクリーンの右下に白い鳩が時おり姿を見せる。
それはジョン・ウーの映画のように画面を横切ってスローモーションで飛ぶ主張などせず、見落としてしまうくらいのさりげなさだ。
ハリウッド映画に出てくるヘンな日本人はこの映画にはいないし、実によく調べ、日本的な“こころ”を描いている。
この映画が日本で作られたものではないということが、今の我が国の現状を如実に表していると思う。
しかし、天皇やその時代に多くの人が関心を持ち、自分なりに解釈できるということはとてもいいことだ。
まずは、偏見を捨てて見ることだ。
どこかの愚か者が喚いて難癖を付け、上映中止のようなことにならない前に・・・。

ちなみに、「シネパトス」で立ち見といわれても、諦めずに入場して一番前に行き、
端の階段状になっているところに座れるのだ。
まあ、苦にならなけりゃぁ、男らしく立ちっぱなしでもいいけどさ。

10:39:00 | mogmas | | TrackBacks