January 30, 2007

新・旧「オーメン」比べ

  
ジェリー・ゴールドスミスの“悪魔の賛美歌”ともいうべきテーマ曲「アヴェ・サタニ」が流れ出すと、紅顔のビ少年だった30年前のわたしは、映画館の暗闇の中でゾクゾクッとしたものである。
このゾクゾク感を再び味わいたくって、お正月になると値下げするDVDで「THE OMEN」特別版を買ったのであった。
しかし所有してしまうと急いで見る必要もなく、封も開けずにしまってあったのだが、2006年のリメイク版「オーメン666」をTUTAYAさんで借りてしまい見たところ、その、あまりにオリジナルをなぞっただけで、ゾクゾクのかけらもない仕上がりに憤慨してビールを1本余計に飲んでしまい、その勢いで1976版の封を開け、深夜の新・旧連続視聴となってしまったのである。

知らない人のために言っておくが、「オーメン」とは、剣道の竹刀が顔面炸裂「おめーん、1本 ! 」のことではない。また、行列のできるラーメン屋「オー麺」ともちがう。
【OMEN】 前兆、きざし、予感、虫の知らせ。予言、予知。

の、ことである。

リチャード・ドナー監督作品(スーパーマン、リーサルウェポン)、1976年の「オーメン」には、名優グレゴリー・ペックが主演していたせいもあり、たぁだキャアキャアいうオカルト映画とは一線を画し、格調ただよう仕上がりになっていた。
名優グレゴリー・ペックを知らない人のために言っておくが、「ローマの休日」の王女様と恋に落ちる新聞記者といえばおわかりか、あるいは「アラバマ物語」のアカデミー俳優と言ったほうがいいか、それでもだめなら、怪物モービー・ディックに銛を打ち込む執念のエイハブ船長と言えばいいか。

とにかく、76年当時すでに60歳だったグレゴリー・ペック=アメリカの外交官ロバートは、病院で死産した我が子の代わりに赤ん坊をもらい受ける。
その子が悪魔の子「ダミアン」だったのだ。
脚本は76年のオリジナルと同じデヴィッド・セルツァー。
しかし2006年版では、ロバートと妻の年齢が若返えり、ほぼ同じストーリーなのだが、妙に説得力がない。
「ローズマリーの赤ちゃん」の顔だけで不気味なミア・ファローが、乳母のベイロック夫人を演じているのはいいが、アクションシーンではさすがに別人で、たいした効果をあげていなかった。
ブレナン神父役も顔は不気味な感じでいいのだが、有名な串刺しシーンの演出はいただけない。
ただ雨風で煽りゃいいってもんじゃない。事が終わって、カラッと晴れ上がるオリジナルの静寂の怖さを見習ってほしかった。
また、カメラマンの首が切断されるシーンの緊張感もオリジナルにはかなわない。
いくらCGなどの技術を駆使したとしても、それだけで恐怖のレベルが上がるわけじゃない。
アナログやローテクの怖さも再認識してほしかった。
同じ脚本でも演出が変わると、こうも違ってしまうのか。
せめて劇中で「アヴェ・サタニ」を流して盛り上げてほしかった。
その芸のなさが、恐ろしい。

それにしても、今頃「オーメン」をリメイクする意味があるんだろうか。
とっても地域限定な悪魔なんて、今や怖くも何ともない。
もし悪魔が神の軍勢に打ち勝ち、世界を支配したいと本気で考えているなら、「オーメン(前兆)」など発せずに、誰にも邪魔されないようにこっそり復活すればいいじゃないか。
所詮悪魔はキリスト教の神様の配下で、布教活動の一環として不信心者に悪さを仕掛け、キリスト教徒に帰依させようとしているのだから。
そういった突っ込みを思い浮かべてしまうほど、新しい「オーメン666」はスキのある作品だった。

しかし、あいかわらず欧米人は英語がヘタクソだ。
「ダミアン」と正しく言えず、みんな「デミエン」と発音するのだから。
「マリアン」を「メリエン」と言うのと変わらないお粗末さじゃないか。
もっと欧米人に英語教育を徹底させないといかんな。
とりあえず、もう「ダミアン」は死んだのだ。復活は有り得ないのだ。


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January 28, 2007

最近見たDVD


ほのぼの系というか、コメディというか、まあ、肩肘張らないタイプの映画を立て続けに見た。

その1、「THE 有頂天ホテル」
正直に言うと、三谷幸喜という人をおもしろいと思ったことが一度もない。
脚本も監督作も何度か見ているが、笑えたためしがない。
なのにどうして見るのかといえば、魔が差したとしかいいようがない。
もう一つには、この作品に我が尊敬する伊東・ベンジャミン・四郎さんがご出演なさっているからだ。
しかし、残念なことに、ベンジャミン・伊東のみならず、他の芸達者な役者の個人芸は光るものの、どうしても話がわざとらしく、「ここは笑うところですよー」みたいな前振りも臭く、フジテレビ臭がプンプン漂う、スペシャルドラマで充分なちんまいお話に辟易した。
なぜ三谷幸喜がもてはやされるのか ?
それは観客のレベルがひく〜くなっちゃっているせいと、笑いの質がお手軽なものになっていることに他ならないとみた。
とにかく三谷幸喜とは、笑いの沸点が違うということが完全に明らかになった。
それがわかっただけでもよかったかもしれない。

その2、「間宮兄弟」
正直に言うと、森田芳光という人をおもしろいと思ったことが一度もない。
脚本も監督作も何度も見ているが、笑えたためしがない。
なのにどうして見るのかといえば、魔が差したとしかいいようがない。
あと二つには、この作品に我が愛しの沢尻エリカちゃんがご出演なさっていることと、森田芳光は、なんと無謀にもあの名作「椿三十郎」をリメイクするというので、監視の目を怠ってはならんと思ったからだ。
しかし、残念なことに、愛しの沢尻エリカちゃんのみならず、中島みゆき様や他の役者の個人芸は光るものの、どうしても話がわざとらしく、「ここは笑うところですよー」みたいな前振りも臭く、森田芳光臭がプンプン漂う、単館で幸い、でもテレビのスペシャルドラマで充分な、ちんまいお話に辟易した。
なぜなぜ森田芳光がもてはやされるのか ?
それは観客のレベルがひく〜くなっちゃっているせいと、笑いの質がお手軽なものになっていることに他ならないのだ。
とにかく森田芳光とは、笑いの沸点が違うということが完全に明らかになった。
それがわかっただけでもよかったかもしれない。
この中途半端なほのぼのを、劇場へ見に行かなくて本当によかったと再確認したのである。

その3、「寝ずの番」
監督「マキノ雅彦」が何者かなど知る必要はない。
が、黄金時代の日本映画かくあるべきともいう演出のさえと、大人の、小粋で下世話で、お下品で、気の効いた笑いのエッセンスをふりまけるのは、俳優「津川雅彦」の経歴と、日本映画界の創始者である祖父「マキノ省三」と、伯父「マキノ雅弘」を擁する華々しい芸能家族のなせる技だといえるかもしれない。
「中島らも」原作というのもいい。
関西の噺家をDC、DC、喜っ一ちゃんが好演、富司純子の首筋のシワがいささか悲しいが、強力なバイプレーヤーたちが回りを固め、木村佳乃の“オソソ”だけを期待したスケベェも絶対満足の仕上がりだ。
ほのぼのだけど、笑いのツボをキッチリ押さえてくれました。

その4、「かもめ食堂」
三谷幸喜の嫁が主演だからといって、三谷幸喜作品とおなじようにイラッとすることはなかった。
監督・脚本はこの作品が三作目となる荻上直子という女性。
女性だからといって、オヤジと笑いのツボが合わないということはない。
お話はあくまでもほのぼのとして、かといって、森田芳光のとってつけたようなほのぼのとは質が違い、日本人の男が出てこないというせいではなく、小林聡美&片桐はいり&もたいまさこのそこはかとないゆるい緊張感が効果をあげていて、退屈な日常を退屈させない茫洋としたスパイスが利いている。
いろいろ訳ありな登場人物の、訳ありを深く追求しないのも作品に深みをもたせているようだ。
そこには荻上直子という女性の視点が生きている。

その5、「バーバー吉野」
荻上直子監督の長編デビュー作。
おもろいよぉ。
前から気になっていたのだけど、見て損はなかったね。

ある田舎町の小学生の男の子は、なぜかみんな同じ髪型をしている。
大昔からの伝統の髪型は、きちんと長さも決まっていて、小学校の校長や先生方もチェックを怠らない。
もし規定より長くなったら、町に一軒しかない床屋さんに行かされることになる。
代々続く床屋の女主人は、誇りと自信を持って伝統の髪型「吉野刈り」を守っている。
ある日、「バーバー吉野」の一人息子のクラスに、東京から茶髪ですかした転校生がやって来る。
女子はときめき、男子ははじめて見る茶髪に反感を持つ。
そして巻き起こる伝統への氾濫。
この物語は、小学生の男の子の、青春前期グラフティなのだ。

これはぜひ「バーバーくん」に見てもらいたい。
彼もかつて「吉野刈り」の男の子と同じような“おいた”をしたことがあるハズだ。
吉野のおばちゃん(もたいまさこ ! いい、菅井きんの代わりが出来るのはこの人しかいない ! )の技を盗み、ぜひ「吉野刈り」を習得して頂きたい。
オヤジも「ケン・ワタナベ」に飽きたら、今度は「吉野刈り」でいくか・・・と、まてよ、先日「バーバーくん」のカットモデルになった「ヨウコリン」の髪型は、あれは「シメジ頭」ではなく、女性版「吉野刈り」だったのか ?
うーん、秘かに習得していたのか。
相変わらず抜け目のない男だ、「刈り魔王」め。

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January 25, 2007

硫黄島からの手紙


地下壕の中で、老眼鏡をかけて家族に手紙を書く「栗林中将」の姿を見て、「あ、オレにそっくり」と思ってしまった。
「ケン・ワタナベ」はいい役者だ。老眼鏡もさまになっているし、ちょっとオツムが薄いのもいい感じだ。
あと20キロ減量したら、わたしは「ケン・ワタナベ」と瓜二つになってしまうかもしれない。
今からヤクルトを飲んで、英語を勉強した方がいいかもしれない。

映画館の暗闇の中で、そんなことを考えながら、このアメリカ人の作った類いまれな「日本映画」に引きつけられていた。
前作「父親たちの星条旗」とともに、にわかに脚光を浴びた「硫黄島」と「栗林忠道」中将だが、なにをかくそう、ほとんど知らなかった。
むしろ、「バロン西」中佐の話の方が多少聞きかじっていて、「栗林中将」とごっちゃになっているような有様だった。
そんな程度だから、「硫黄島」に集落があって、人が住んでいたことなどまったく失念しており、「父親たちの星条旗」では意図的に描かなかった島の生活の場を目の当りにして、意表をつかれ、また己の見識の低さをあらためて思い知らされた。

若い頃、青年海外協力隊の一員として、ニューギニアなどへ遺骨収集に行った経験のある「ヒトリモン」先生によると、当時の仲間で「硫黄島」の地下壕へ下りて調査や遺骨の収集をした人の話として聞いたのは、壕の中は熱くてガスが充満していて、長い時間の活動は無理なほどの過酷な状態だったそうだ。
そのためだけかどうかはわからないが、現在もこの島には1万3千余柱の遺骨が眠ったままになっている。
戦後60年の間に、島の環境が急激に変わったとも思えず、「栗林中将」以下多くの無名の兵士たちは、それこそ地獄の戦いを戦い抜いたのだと、そしてそれを伝えるために手紙を書いたのだと、映画は教えてくれる。
  
ジョン・ウェインの「硫黄島の砂」のなかで、兵隊たちは「コーマン、コーマン ! 」と必死に叫んでいた。
「父親たちの星条旗」のなかでも同様の叫びが戦場のあちこちからおこり、衛生兵ジョン・“ドク”・ブラッドリーは銃弾の雨をかいくぐり救出に向かうのだった。
アメリカ軍は味方を見捨てない。傷ついた兵士をその場に残して退却したりしない。
だから衛生兵「コーマン」を標的にしろと、硫黄島に立てこもる若い兵隊たちに下士官は指示する。

また、アメリカ軍は捕虜を殺さない。捕虜にも食事が与えられる。
その噂を一縷の望みに、地獄の戦場を離脱し捕虜となった日本兵は、ジャップの監視に嫌気がさした、くわえ煙草の米兵に簡単に撃ち殺されてしまう。

戦争にルールなどあるのか ?
戦争にモラルなどあるのか ?

国と国がはじめたケンカに、巻き添えをくって最前線に駆り出されるのはごく普通に暮らしていた市民だ。
お国のためとは言いながらも、ほんとうに案ずるのは残してきた家族や愛すべきもののことだ。
その気持ちは戦闘を指令する上官でも、一兵士でも変わらない。
「クリント・イーストウッド」監督は「栗林中将」の視点で、その思いを伝える。
言葉はわからなくても、演技を見ればその役者の技量がわかるという、自らも演じ手であった監督ならではの演出は、スクリーンに映らない“ガヤ”のセリフにもいきとどいている。
それは、今までのハリウッド映画にないほどの心配りで、日本、日本人の心を描いている。

この映画は、日本映画に突きつけられた挑戦状にも見えてしまう。
様々な制約や、日本的な配慮とか、お涙頂戴でしか作れない、戦争を描いた日本映画など、もうやめてしまえばいい。
「クリント・イーストウッド」のような監督にすべてまかせてしまった方が、よっぽどいいものができるだろう。
昨年の「太陽」も然り。
日本人は、この映画を見るべきだ。
そして「ケン・ワタナベ」とオヤジの相似性に気づくがいいのだ。

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January 08, 2007

沈黙の奪還、の広告

  
セガールさんはいくつなんだろう ?
顔は15年前と比べると明らかに太っているし、アクションもあまり動きのないものになっているようだ。
お話はもはや突っ込みどころ満載のコミック状態で、邦題に「沈黙」とつけてシリーズと銘打っているから、よけいにオバカな感じがする。

新聞に出ていた「沈黙」シリーズ15周年記念作品「沈黙の奪還」の広告に笑ってしまった。
「このオヤジ負け知らず」というコピーに、愛娘・藤谷文子の言葉が「お父さん、一度でいいから負けてください」ときたもんだ。
長州小力は「う〜ん、正直、手強いですね・・・」だって。
さらに追い打ちをかけるように、1.13より“15執念”ロードショー! とある。
そして劇場は銀座シネパトスだ。

おもしろそうだなぁ。
絶対見よう。
レンタルで。
しかも一週間になってから。


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