January 13, 2006

ストローおじさん

ばあさんの顎と唇は、抜糸後は順調に回復しているが、4本目の歯がグラついていたり、ピタッと唇が閉まらなかったりで、食べたり飲んだりするのが辛そうだ。
食べ物は、幅の狭い先の細いスプーンでおちょぼ口で少しずつ食べ、味噌汁や飲み物は、茶碗から飲むと唇の隙間からタラタラこぼれてしまうので、常にストローを使っている。
バリバリと音を立てて煎餅を食べたいだの、勢いよく蕎麦を啜りたいという欲が出てきたので、取りあえず食の方は安心だ。

貧乏性の昭和3年生まれは、もったいないが先に立ち、味噌汁やコーヒーを飲んだストローを何度も洗って使っている。
しかしさすがに何度も使えば、曲がりの蛇腹の部分の汚れが取れなくなるので、時々こっそり取り替えてやる。
今はストローなど安く、売るほどあるのだから、せめて味噌汁用とか、コーヒー用で使い分けてほしいと思うのだが、1度口に入れたものは愛着がわいてしまうのかもしれない。

そんなストローのことで、かつてモグランポでランチをやっていた頃、1週間に2度ほど来られたお客様を思い出した。
店での通称は「ストローおじさん」だ。
背は低く、黒ブチの眼鏡とネクタイは締めているが、見るからに垢染みた服装で、すり減った運動靴は明らかに大きすぎた。
いつも使い込んだ手提げの紙袋を抱えるように持っていて、足が悪いらしく、左足をやや引きずった歩き方をした。
その辺の噂によると、元銀行の支店長だったとかで、落ち着いた低音の声と、蘊蓄のある話し振りはなるほどと思わせるものがあった。
「ストローおじさん」は、ランチを食べるというよりは、酒を飲みにやって来た。
昼間から、日本酒、ワイン、ビールを頼み、ごく静かに煙草を吸うでもなく、背筋を正してゆっくり飲んでいった。
お金も持っているようだし、それだけならとてもいいお客様だったのだが、酒を飲む時には必ず上着の内ポケットから“マイ・ストロー”を取り出し、チュー、チュー吸うのである。
他にお客様がいない時ならまだいいが、カウンターに座っているだけで“何者?”という雰囲気を醸し出しているのに、やおらストローを取り出して酒を吸い込み始めると、それを目の当たりにした他のお客様の目は点になってしまうのだ。
まあ、それでも、色々なクセのある人がいて世の中成り立っているのだから、そこまでは大目に見よう。
しかし、残り少なくなった酒を“ズルズル、ズピッ、ズズッ、プハッ、ゲップ”とやられたら、他に食べている人の食欲は一気に減退してしまう。
ある日、勇気を出して聞いてみた。
「なぜストローで飲むんですか」と。
するとおじさん、来なすったなと余裕の笑みで、
「こうするとねぇ、味が繊細にわかるのですよ。それぞれの素材の味を舌の上で確かめられるんですね」
と宣った。
ふふん、しかし何度も使い回されたストローの蛇腹の部分は、すでに変色して、いかにも不潔だ。
とても親切なオヤジは、新しいストローを差し上げた。
するとおじさん、自分の愛用のストローと見比べ、小さく頷くと新しいストローを内ポケットに仕舞ってしまった。

そんなことが何度かあり、音を立てて酒を飲むのはやめてほしいとお願いした。
おじさんはちょっと考える振りをし、
「わかりました」と答えた。
だが、その後も効果音入りの酒飲みパフォーマンスは治まらず、あげくの果ては「おなら」まで平気でお漏らしになったのである。
他のお客様の迷惑になる行為を、これ以上容認する訳にはいかないので、まことに遺憾ではありますが、お立ち入り禁止とさせて頂いた。

しばらくの間、千住の町を昼間歩く寂しげな「ストローおじさん」の後ろ姿を目撃することはあったが、いつの間にかその姿を見かけなくなった。
どんな事情があって、どんな人生を送っているのか、いささか寂しい出来事でありました。
小さな子供が、ストローで“ズズズッ”と飲み物を吸い込むのを見るたび、一抹の寂寥感を覚えるのは私だけなのでありましょうか。

Posted by mogmas at 13:36:00 | from category: Main | TrackBacks
Comments
No comments yet
:

:

Trackbacks